年金通

知らないまま損する人をゼロにする

生きる保証はないのに、老後前提の仕組みを疑わない理由

未来への手紙
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長く生きれば得をする

そんな前提で設計された仕組みを、私たちはほとんど疑わずに受け入れている。

でも、そもそも自分がどれくらい生きるかなんて、誰にもわからない。

そこに、ほんの少しの違和感がある。

年金、保険、資産運用。

どれも「長く生きるほどリターンが大きくなる」ようにできているが、逆に言えば、早く終われば損をする構造です。

それでも多くの人は、その前提を飲み込んでコツコツと積み上げていく。

一般的には「将来に備えるのが賢い」とされます。

不安定な未来に対して、今できることを積み上げるのは合理的だし、真面目な選択に見える。

そして、周りも同じように動いているから、疑う余地はあまりない。

手を止めない人たち

でも少し視点をずらすと、この構造は「未来を信じ続けられる人」だけが成立させているとも言える。

つまり制度そのものより「きっと自分はそこに到達するはずだ」という前提のほうが、静かに強く信じられています。

たとえば、毎月決まった額を投資に回している人がいる。20年後、30年後のために。

けれどその人は、来年の自分の生活すら確実には予測できないにもかかわらず、それでも手を止めないのは、計算の正しさよりも、「未来は続く」という感覚を疑っていないから。

長生きするかどうかではなく、「長生きする前提で生きるほうが安心できる」。

もしかすると私たちは、制度を信じているのではなく、その安心感にしがみついているのかもしれない。

未来への手紙 ── 届く相手を疑わずに

考えてみれば、「未来に備える」という行為は、未来の自分への手紙のようなもの。

でもその手紙が届く相手が、本当に存在するかどうかは誰も保証していない。

それでも私たちは封をして、ポストに投函し続ける。

届くことを疑わずに・・・。

信仰としての積立

この感覚は、ある意味で信仰に近く、神を信じる人が礼拝を続けるように、未来を信じる人は積立を続ける。

証明できないけれど、やめる理由もない。

むしろやめることのほうが、どこか後ろめたく、社会が設計した「正しい生き方」の外に出るような、うしろめたさが伴う。

だとすれば、私たちが本当に怖れているのは「損をすること」ではないのかもしれない。

怖れているのは、「正しい側にいなかったこと」が証明される瞬間であり、老後に貧しくなることより「あのとき備えなかった自分」を責める声のほうが、実はずっと大きく聞こえてくる気がする。

制度は人が設計したもの。

特定の時代の、特定の前提のうえに積み上げられた、あくまで仮の答えにすぎない。

日本の年金制度が本格的に整備されたのは高度成長期のことで、人口が増え、経済が拡大し続けるという楽観を土台にしていた。

その楽観がすでに揺らいでいることは、誰もが薄々知っている。

それでも私たちは、制度の外に出る言葉を持たない。

「備えない生き方」を肯定する語彙が、社会にはまだ少なく、だから迷いながらも、慣性のように積み立てを続ける。

問いを持ちながら、行動は変えられないまま。

その前提が揺らいだとき、私たちは何を選ぶのだろうか。

そしてもう一つ、問いたいことがある。

前提が揺らいでも、私たちはきっとまた別の「安心できる物語」を探すだろう。

人は不確かさの中に素手で立つことが、あまり得意ではないから。

問題は、どんな物語を選ぶかではなく、「これは物語だ」と知りながら選べるかどうか、なのかもしれない。